徳川家康公の墓|駿府ネット
◀ 興津諦オフォシャルサイトへもどる
◀ アンガーマネジメント静岡教室
日本の風水の中心、
聖地、久能山。
家康公は久能山に埋葬され
以来四百年、ここに眠っている。
遺骸は日光へという通説には
やはり矛盾が多かった。
久能山東照宮こそが
真の墓所だった。
 徳川家康公の真の墓所は久能山東照宮であり、御尊体(ご遺骸)は徳川家康公の薨去こうきょされた元和げんな二年四月十七日に埋葬されたまま、久能山東照宮のご神廟しんびょうにあります。当サイトはその事実を検証するものです。

最新情報は書籍此處ココル 家康公は久能にあり』

 当サイトに掲載している情報は、2014年時点、筆者がこの件の研究取材を始めたばかりの時点に書かれたものが多く含まれています。

 最新の研究成果につきましては、2019年12月発売の『余ハ此處ニ居ル 家康公は久能にあり』(税別定価1,200円)をお求めください。
 ヨドバシ、アマゾンなどのネット通販各サイトや全国の書店で購入できます。
(2019年11月24日記)

『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』
興津諦著/静岡新聞社刊

『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』興津諦著/静岡新聞社刊
 当サイトと『季刊すんぷ』で公開してきた情報を全面的に見直しつつ、新たにわかってきた事実も加えて、 久能山に家康公が眠っているという事実についてわかりやすくまとめた一冊です。
 「なぜ久能山だと言えるのか?」にとどまらず、「なぜ日光に改葬されたと、事実と異なる文献がいくつも存在するか?」についても、読者に納得していただける内容になっていると思います。
ISBN978-4-7838-1094-0 C0021/ソフトカバー/四六版190頁
定価 1,200円(税別)
ヨドバシ.com で購入(送料無料)▶
アマゾンで購入(送料無料)▶
楽天ブックスで購入(送料無料)▶
紀伊國屋書店ウェブストアで購入▶
honto で購入▶
e-honで購入▶


『季刊すんぷ』と駿府ネット

 当サイト『駿府ネット』は「久能山には遺骸はない」という誤解を解くことを目的とし、2014年7月、アドマック出版が立ち上げたものです。同じ趣旨をもって2014年11月から2016年2月にわたっての年4回『季刊すんぷ』を発行し、久能山東照宮ほかにて無料配布してきました。 久能山東照宮での『季刊すんぷ』配布の様子
久能山東照宮での『季刊すんぷ』配布の様子



A. 早わかり家康公の遺言(御遺命)

全ては遺命通り。墓所は久能山。
【遺言1】「我が死んだら躰は久能山に納めよ」
【遺言2】「躰は西を睨ませ、立てて埋葬せよ」
【遺言3】「葬儀は増上寺で行え」
【遺言4】「位牌は大樹寺に立てよ」
【遺言5】「一周忌の後、日光山に分祀せよ」

「久能山に埋葬した躰を掘り起こして? 他所へ運べ?」などとは言っていない。言う理由も道理もない。

B. 早わかり家康公の墓所


家康公の遺言1616年4月「遺骸は久能へ、顔を西を向けて蹲踞そんきょさせて埋葬せよ。一年後、日光に小堂を建てて分祀せよ」
「西を向けて」は西の勢力に睨みをきかせるため必要なことだった。
駿府城から久能山へ1616年4月16日、家康公薨去(逝去)、雨の当夜、神となる躰をのせた柩は決して人目に触れることのないよう秘密裏に久能山へ運ばれた。
日光への分祀1617年3月〜4月、分霊された御霊をのせた柩が日光へ運ばれた。遺骸は運ばれていなかった。…というのが事実。その最もわかりやすい証拠は、「神となる躰をのせた柩」であれば、きらびやかな金の神輿でこれ見よがしに運ぶということはあり得ないから。今でいえばゴールデンウィークの暖かなころに途中各所で連泊も繰り返してゆっくりと「柩」を運び、その「柩」はといえば(昭和の戦後になって東京芝の増上寺で発掘調査が行われた徳川将軍の墓で明らかになっているように)、腐敗防止のために何百キログラムもの硫化水銀で満たされていた。土葬以上にそのままであった躰を切り刻んでの「分骨」なども当然できなかった。
久能山東照宮1617年12月 社殿が完成した。現代でもそのころのまま大事にされている。
日光東照宮1617年12月時点には、久能山ほど立派なものではなかった。遺言通り分祀であり、遺言通り「小さな堂に分霊せよ」だから遺言に従ったもの。
徳川家光公1634年 「寛永の大造替」で日光が立派に。家光公は6月久能山に来て「家康公は久能にあり」と詠んだ和歌を残した。
徳川宗家第十八代ご当主徳川恒孝様2016年3月 「家康公の墓所」は「久能山」と明記して静岡商工会議所会報に寄稿された。その後も久能山が真の墓所である旨の発言をされている。

C. 史料以上に頼れるもの

 2019年10月23日、平凡社より『徳川家康の神格化 〜新たな遺言の発見〜』という本が出版され著者の野村玄さんが送ってくださいました。ありがとうございました。

 野村さんは大阪大学准教授で歴史学者です。昨年も平凡社より『豊国大明神の誕生』という本を上梓されていて、日本の近世史に取り組んでおられるプロの学者さんですから、内容はさすがに深く研究されていて、私など素人には、とても勉強になるものです。

 そもそも私こと興津諦は、2014年より『季刊すんぷ』を発行し、このようなウェブサイトも運営してきておりますが、歴史の専門家ではありません。それどころか、歴史は得意科目ですらありませんから、久能山の歴史を研究してみようとなったら専門書もがんばって読む必要があります。

 当サイトと『季刊すんぷ』が研究してきたのは、「徳川家康公の躰が久能と日光、どちらに埋葬されているか」の一点です。

 そしてどう考えても久能山に埋葬されたままであって、日光へなど絶対に運ばれていないと断言したいのですが、それがなぜかといえば、史料にどうあるかといったこと以上に、日光の奥宮、久能の神廟を実地に見て比較すればはっきりとそう感じるからであり、また、徳川家の第十八代御当主徳川恒孝さんが、まだ二十代の若いころから半世紀以上にわたって四月十七日の久能山東照宮の例祭に毎年お見えになり神廟への墓参も欠かさなかったことに加え「家康公の本当のお墓は久能山である」旨のご発言もされているからです。

 徳川家=旧将軍家の御当主がどうしていい加減なことを言われるでしょうか。神忌と呼ばれる家康公の命日四月十七日に久能山で毎年お墓参りをされてきた、世が世なら将軍様であらせられた方が、勘違いをしていることなどあり得ないと思うのが当たり前ではないでしょうか。

 歴史学は史料を重んじるものなんでしょう。しかし、史料以上に頼れるものがあったのだとすれば、史料など霞んでしまうことだってあるわけです。

 もし本当に信頼すべき史料があるのだとすれば、それは史料を書いた当人とその周辺の人々に実地に会って、書いた真意は何だったのか、背景はどうだったのかを直接確認した場合に限られるのではないでしょうか。

1. 徳川家康公の御遺命と「勧請」


 本光國師こと金地院崇伝は、大御所家康公の側近として、自身の書状の記録を主とする正確な日記を残しました。その『本光國師日記』の中、元和二年(1616年)4月4日の日記に、徳川家康公の御遺命が記録されています。  
本光國師日記元和二年四月
本光國師日記元和二年四月
【本光國師日記 元和二年卯月四日】
 南禪寺迄好便候而。一書令啓達候。一傅奏衆歸京之刻。以書狀申候。一相國樣御煩。追日御草臥被成。御しやくり。御痰なと指出。御熱氣增候て。事之外御苦痛之御樣体ニて。將軍樣を始。下々迄も御城に相詰。氣を詰申体。可被成御推量候。傅奏衆上洛之以後。事之外相おもり申躰候。拙老式儀ハ。日々おくへ召候て。忝御意共。涙をなかし申事候。一 一兩日以前。本上州。南光坊。拙老御前へ被爲召。被仰置候ハ。臨終候ハ丶御躰をハ久能へ納。御葬禮をハ增上寺ニて申付。御位牌をハ三川之大樹寺ニ立。一周忌も過候て以後。日光山に小キ堂をたて。勸請し候へ。八州之鎮守に可被爲成との御意候。皆々涙をなかし申候。一昨三日ハ。近日ニ相替。はつきと御座候て。色々樣の御金言共被仰出。扨々人間ニてハ無御座と各申事候。此上ニても御本復被候て。御吉左右申入度候。内膳殿ゟ可被仰入候。恐惶謹言。
卯月四日 金地院
『新訂 本光國師日記 第三』校訂 副島種経
株式会社続群書類従完成会 刊行
昭和43年12月25日発行(383ページ)

赤字ご遺命部分の現代語訳】
 「一両日以前(1616年4月2日、大御所徳川家康公が駿府城にて)、本多上野介正純と南光坊天海、そして筆者金地院崇伝をお招きになり仰せおかれるには、『臨終となったら躰は久能へ納め、葬儀は増上寺にて申し付け、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌も過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て勧請せよ、八州の鎮守になるべく』との御意であった。皆々涙を流した」

【ご遺命の意味するもの】
 1616年4月17日に薨去(死去)する2週間ほど前に、徳川家康公は病に伏せる駿府城で側近たちを呼んで次の4点を告げたということです。
(1)遺骸は久能山に埋葬すること
(2)葬式は江戸の増上寺で行なうこと
(3)位牌は徳川家の菩提寺である大樹寺に立てること
(4)一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請(分霊)すること
 徳川家康公は「日光へ勧請(かんじょう)せよ」と命じています。
 「勧請」とは、分霊であり、分祀ですから、遺骸は久能山に埋葬し、その遺骸をまた掘り出して日光へ運べとは決して命じていないのです。遺骸は久能山に埋葬せよというのが徳川家康公のご遺命です。
 翌年の元和3年3月15日、徳川家康公のこの遺命に従い、勧請の総指揮にあたった南光坊天海はじめ家臣たちは、久能山から日光へ向けた盛大な勧請となる「神霊遷し」を始めました。

【南光坊天海が久能山に残した謎の歌】
 この勧請を指揮した天海は、これを「勧請」ではなく「宮遷し」と称し、神霊を「柩」で運びました。それ以来、「遺骸は千人行列で日光へ運ばれ、久能山から日光への改葬が行われた」と巷間に信じられるようになったようです。

 天海はこの時、久能山に次のような歌を残し、実際に「宮遷し」と称しています。  
天海僧正の歌「あればあるなければないに駿河なるくのなき神の宮遷しかな」
天海僧正の歌「あればあるなければないに駿河なるくのなき神の宮遷しかな
阿部正信『駿國雜志』四下より(明治8年の写本/静岡県立中央図書館蔵)
あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉

 上の表記は変体仮名の部分を漢字に置きかえたものですが、変体仮名を現代の普通の仮名に代えるなどして下に読みやすくしてみます。(吉見書店版に準ず)
あればある なければないに 駿河なる くのなき神の 宮遷しかな
 実はこの歌にこそ、「幕府のトリック」が隠されていたと読むことができます。

 全体的に意味のわかりにくい歌ですが、特に奇妙なのは、赤字にした「くの」の部分です。まず「」の字をわざわざ「」の変体仮名にして「久能」と読めるようにしてありますが、「久能なき神の宮遷し」と読んだのでは意味が通りません。

 そこで今度は「の」を助詞の「の」と見ます。するとそこで仮名の「」の意味は?となりますが、唯一「く」で意味が通るのは「一軀、二軀」と御神体を数えるときの「」です。

 天海は「」の仮名に「御尊体(御遺骸)」という意味を込めたのです。それには「軀」という生々しい漢字を避ける目的もあったでしょうし、御尊体の在り処「駿河なる久能」を織り込むためもあったのでしょう。つまり天海はこの歌で「御遺骸なき宮遷し」と言い、「宮遷しは遺骸の運び出しではない」と言いのこした──そう読んではじめて歌全体の意味も通ってきます。
霊柩の中に御尊体があると思ってもないと思ってもどちらでも良い
これは御尊体なき宮遷しなのだ
 また、もし巷間信じられているように「御遺骸を掘り出して日光へ運んだ」ということだったとしたら、そもそもこのような歌を残す必要がないということにも注意しなければなりません。

 天海ら幕府は、その後も久能山を守りつづけましたが、一方で世間の耳目を日光に集めようと尽力しています。

 久能山には神聖なる真の墓所としての役割があり、日光は日光で、幕府の安泰をはかる上での大事な役割があったからです。

2. 家臣、側近たちの忠誠

 いずれにしても、天海僧正をはじめとする側近たちはみな、徳川家康公のご遺命に従ったと見るべきだろうと思われます。

 「それでも遺命に背いて遺骸が掘り出されて運ばれた」というのが事実と仮定した場合、家臣や側近や将軍など、この千人行列に関わった幕府中枢の中に、必ずご遺命に背くことへの反対意見が出たはずですが、それでも無事に改葬ができたということなのでしょうか?

 また、徳川家康公は西を向いて「立てて」(まっすぐ座った姿勢でという意味)埋葬されたとされ、それは土葬でしたから、火葬と違って「分骨」もできません。

 「西に向けよ」という徳川家康公のご遺命は、「東は安泰だが、西の勢力はまだ心配なものがある」との判断があったためで、死んでからも西を睨みつづけようという強いご遺志によるものです。それは側近たち、家臣たちにとってもとても心強いものだったのです。もし遺骸の掘り起こしと日光への運び出しをしてしまえば、その「死んでからも続ける役割」がまったくの無となってしまいます。もしそのようなことをすれば、好ましくない大事件として歴史に残されたはずですが、そのような歴史はありません。

3. 寛永の大造替後の石の宝塔建設

 三代将軍徳川家光公のとき、幕府の財産を湯水のように遣って行われたというのがいわゆる寛永の大造替です。

 寛永11年(1634年)、工期1年5か月、450万人の延べ人数によって、日光東照宮が今のような壮大なものに建て替えられました。日光の壮大さには及ばないものの、三代将軍徳川家光公は、この大造替のとき、久能山東照宮の増築も命じています。

 久能山東照宮の神廟(徳川家康公墓所)がそれまでの木造から今のような荘厳な石造りの宝塔に建て替えられたのも、家光公存命中の寛永17年(1640年)のことだったといいますから、「日光遷座」といわれた元和3年(1617年)以降も、この墓所は幕府の手によって、この上なく、大事にされてきたのです。

 また当時の久能山東照宮は、社殿を含め、一般の民衆がいつでも参拝できるようにはされておらず、江戸幕府のプライベートな場所だったともいわれています。こうした事実が示すものは、日光に東照宮ができた後も、久能山の重要性がいささかも失われてはいなかったということでしょう。
久能山東照宮の神廟=徳川家康公の墓所
久能山東照宮の神廟=徳川家康公の墓所

4. 久能山の御例祭と日光の例大祭

 久能山東照宮の御例祭は、毎年4月17日、徳川家康公のご命日です。徳川家康公が神になられたその日に、徳川御宗家も装束をつけておまつりをされます。社殿にておまつりされた後には、徳川家康公の墓所であるご神廟に行かれ参拝されます。

 一方、日光東照宮の春季例大祭は、一年で最も重要なおまつりですが、徳川家康公のご命日の1か月遅れとなる、5月17日です。徳川御宗家は、日光でも本殿にておまつりをされますが、久能山と違うのは、そのおまつりの後、奥宮と呼ばれる日光における「徳川家康公の墓所」へはお参りされず、そのまま直会(神社のおまつりのあとで御神饌や御神酒をいただく会)へ行かれるということです。

 日光では例大祭の翌日、5月18日に神輿渡御祭が開催され、「百物揃千人武者行列」が盛大に行われます。元和三年(1617年)4月4日、天海僧正の指揮のもと、徳川家康公の御霊を乗せた霊柩が千人行列によって日光へ到着したことを再現するもので、大変に大勢の観光客が集まります。

 日光東照宮はこのように、国と一般民衆に向けて開かれた東照宮であることがわかります。「日光を見ずして結構と言うなかれ」という言葉がことわざにもなっているほどですから、江戸時代からその壮麗さは民衆からも認められていたということです。

 一方の久能山東照宮は、徳川将軍家によって厳しく守護され、民衆が気安く見ることもできなかったといいますから、特別な聖地だったということがわかると思います。

 以上のことからも、久能山東照宮の御神廟にこそ徳川家康公が埋葬されているということがわかると思います。日光東照宮にあるのは、家康公の御霊(鏡にうつした御神体)を納めた霊柩であって、それは御遺骸ではないということです。

 もっとも、神道としての見方をすれば、御遺骸は久能山に埋葬されたままであっても、それを勧請(分祀)することで、神さまはどこにでも偏在します。それは、墓地があって、仏壇があることと同じです。

 したがって、当サイト『駿府ネット』と『季刊すんぷ』は、「日光には徳川家康公はいない」と主張するものでは決してありません。それどころか、全国にある東照宮の全てに東照大権現は偏在するものと信じるべきだと考えます。

 中でも、徳川家康公が久能山に埋葬されてからたった1年という早い時期に歴史上最大の勧請が日光に行われたこと、それによって日光が久能山以外の他の東照宮とは一線を画する特別な東照宮となったと見ることは異論のないところです。

 ところが今までは、地元静岡の人たちも含めほとんどの人々が「久能山には家康公の遺骸はない」と信じこまされてきました。しかしそれだけは明らかな間違いであり、それではまったく辻褄が合わないということ、これだけはどうしても主張していかなければならないと考えます。


行事の日程を確認

久能山東照宮
4月17日(徳川家康公の御命日) 御例祭

日光東照宮
5月17日(徳川家康公の月遅れ命日) 春季例大祭
5月18日 百物揃千人武者行列
※日光東照宮には、徳川家康公の御命日(4月17日)には特に行事はないようです。

5. 久能山と日光、「墓所」の正式名称

 久能山に「神廟」があるように、日光にも「墓所」とされる場所があり、そこには「柩」が埋められています。問題は、その「柩」の中に本当に御遺骸があるかどうかです。

 「現代の科学技術を使って地中を調べてみればよい」という考え方もありますが、東照宮はどちらも神聖なる信仰の場ですから、そのような「調査」は許されないでしょう。

 しかしそのような調査をしなくても、地中にあるものが何であるのか、それを知っていた人たちがいます。「遷座」「宮遷し」「改葬」とも呼ばれてきた元和3年(1617年)の勧請に携わった幕府中枢の人たちです。

 その人たちが「知っていること」が伝わってきたと考えられるのが、それぞれの「墓所」とされる場所に与えた「正式名称」です。

 久能山東照宮は「神廟(しんびょう)」といいます。神職の方々の間では「御廟所(ごびょうしょ)」とも呼ばれています。

 「廟」とはつまり、「墓」という意味です。つまり久能山の神廟は、神君徳川家康公の墓そのものだというのが、その正式名称に表されています。
久能山東照宮 神廟(御廟所)
 一方の日光東照宮には「廟」の字のつく場所がありません。「神柩」が埋められていて「墓所」とされている場所の正式名称は「奥宮御宝塔(おくみやごほうとう)」または「奥社」です。「奥宮」にも「奥社」にも「墓」という意味は込められていないのです。

 以上の事実も、私たちは重く受け止めなければなりません。地中にあるものが本当に御遺骸なのかどうか、それを知る人たちの間で同意され、与えられ、そして今に伝えられてきた正式名称だからです。
日光東照宮 奥宮御宝塔

6. 日光東照宮「奥宮」で行われている神事

 本項は、久能山東照宮より賜りましたご教示に従っての記述となります。

 久能山東照宮の「神廟(墓所)」に相当するのが、日光東照宮の「奥宮」ですが、久能山では「神廟」は通常、神職の皆さんによって「御廟所」と呼ばれています。そしてそこは、正真正銘の「お墓」であるという代々の共通認識のもと、毎年の徳川家康公の御命日である「神忌」(春季例祭)には、社殿の方でご宗家を祭主としてお祀り(神事)を行ないますが、「御廟所」においては、社殿の神事が終わったあと、「墓参」が行われるのみであり、神事は行われません。

 一方の日光東照宮の御例祭では、社殿でご宗家を祭主として神事が行われるのと同時に、「奥宮」でも神事が行われているそうです。それというのも「奥宮」が「御廟所」(墓所)ではなく「神社」であるという代々の認識のもとでのことであろうと思われます。

7. 日光に御遺骸が必要だったか?

 日光東照宮の奥宮御宝塔の地中には、確かに神柩が埋められているわけですが、その神柩の中に、「御遺骸が入っていなければならない」と考える人もいるようです。しかしそのような考え方はどうなんでしょうか?

 日本人の宗教観というものがあって、それは神道でも仏教でも同じように、先祖を大事にする、死者を敬うという考え方があります。仏教の本家であるインドやチベットなどには、日本仏教のような形での先祖供養はないといいますから、仏教も神道的な宗教観によって日本独自のものになってきたようです。

 日本では各家庭で仏壇を祀り、その仏壇に向かってお線香をあげて祈ることで、先祖の存在を感じ、死者を供養する心を共有します。それが日本人の心であり、日本人の宗教観としては、御霊はそれを祀るところに必ず偏在するということになっています。

 同じように、日光東照宮にも奥宮があり、神君家康公の御霊を祀っています。だからといって、その地中に「御遺骸がなければならない」と考えるのは、そうした日本人の宗教観としてみれば、必ずしも必要のない考え方だというべきものです。

8. 御遺骸を日光まで運ぶことは不可能

 元和3年3月15日(新暦1616年4月20日)より、天海僧正が総指揮を執り、久能山から日光への「宮遷し」が行われたというのが、歴史の事実ということで間違いはありません。久能山の家康公廟所に天海僧正が自ら鋤鍬をもって立つところから「宮遷し」が始まったということが歴史に明確に記録されています。
 しかしここで、私たちは “当たり前のこと” について想像しなければなりません。それは以下のようなことです。

  1. 家康公の御遺骸は土葬されていた。
  2. 埋葬されてから1年足らずだった。
    *御遺骸の保存に朱(毒物の硫化水銀)が使われたという説もあり、もしそうなら埋葬された時の状態に近い。
  3. 「神柩」は、新暦4月20日から約2週間の日程で日光へ運ばれた。

 御遺骸をこのような条件下で、今でいえばゴールデンウィークに相当する暖かな時季に2週間もかけて、優雅に日光へ運ぶということが、果たして可能かどうかということです。不可能だというのが当たり前ではないでしょうか?

9. なぜトリックが必要だったか?

 江戸幕府の公式記録である『徳川実紀(御實紀)』のうち神君徳川家康公について記録した『東照宮御実紀』にも、元和三年(1617年)に天海僧正総指揮で行われた「宮遷し」を「改葬」とまで呼んで、久能山から日光山へ、「神柩」(御尊体=家康公の御遺骸をおさめたとする久能山神廟地下の柩)を「運んだ」とされています。
 それにより後の歴史家の皆さんも「家康公の墓所は久能山ではなくなり日光になった」と言わざるを得なかったのでしょう。

 幕府は少なくとも一般の人々に対しては、「改葬した」ことを知らせました。そして、久能山ではなく、日光への参拝を奨励したのです。

 久能山はどうしたかといえば、一般立入禁止でした。久能山は幕府が厳重に管理し、地元の人々でさえ久能山に登ったことはなかったといいます。

 ですから、もし日光がなかったら、東照大権現という神を詣でることが許されないという、とても困った事態になってしまいます。
 それを解決してくれたのが、御遺言にもある「勧請」、つまり「日光への分祀」だったのです。

 日光山へ勧請されて、関東八州を鎮守する東照大権現が日光にあれば、それを詣でることができるというわけです。

 ただし、それには日光のお宮を御遺言通りの「小さな堂」のままにしておくことはできませんでした。

 日光のお宮を「最大の東照宮」にして、久能山の本物に似せて「形式的な墓所」まで作り、その「墓所」へは立入禁止にする──。御尊体そのものは「墓所」の中の「柩」に入っていようといまいと問題にはなりません。

 のちに、三代将軍徳川家光公と天海僧正が日光に埋葬されたことも、神君の御尊体が日光になかったからこそ遠慮なくそうされたのだろうと考えることができます。久能山は山ひとつが神君の墓所ですから、まさかそこに新たな墓を作るなどという不遜なことはできなかったでしょうし、家光公も天海僧正も日光にかけた思いがあったからでしょう。
国宝、久能山東照宮社殿
国宝、久能山東照宮社殿

10. 久能山東照宮とは? 日光東照宮とは?

 ここまでご案内してきた様々な事実から、はっきりと見えてくることがあります。それは、久能山東照宮とは何か、日光東照宮とは何なのか、それぞれの本質的なあり方です。それを以下に整理してみます。

久能山東照宮
  1. 急峻な箱根山(火山)によって、江戸とは厳しく隔てられている。
  2. 地理的には、楼門、社殿を含めて急峻な久能山の山頂にあり、安易な参拝を拒んでいる。
  3. 徳川家光公による「寛永の大造替」後も神廟が壮麗な石造りにされ、社殿の前に五重塔が築かれるなど、幕府の手によって密かに、一貫して守護されてきた。
  4. 久能山という山ひとつ全体が、神君徳川家康公の墓所となっている。

日光東照宮
  1. 日本最大の平野である関東平野の最北部にある。
  2. 地理的には、緩やかな斜面にあり、一般民衆も含め広く大勢の人々による参拝を容易にしている。
  3. 徳川家光公による「寛永の大造替」により、東照大権現の圧倒的な権威(あるいは御霊験)を見せようとしている。
  4. その規模以外は徳川家康公の御遺命通りと見られ、関東全体を鎮守する神として鎮座している。


 以上の事実から、同じ「東照宮」であっても久能山と日光とでは、それぞれの意義が明確に分かれ、役割が分担されていると見ることができます。

 実際に参拝してみると、神聖さでいえば久能山であり、荘厳さでいえば日光だという感想を持たれる方が多いのではないかと思いますが、それというのも、久能山は(神君徳川家康公の)お墓そのものであり、日光は(東照大権現を最も盛大に祀った)お宮であるからといって良いのではないでしょうか。

11. 徳川御宗家による墓参をNHKが全国ニュースで初めて報道

 去る2015年4月17日、徳川御宗家第18代当主である徳川恒孝さんによる久能山東照宮神廟への墓参を、NHKが全国ニュースで初めて報道しました。
 久能山東照宮では、「御鎮座四百年大祭」を4月15日から19日まで斎行しました。そのうち、徳川家康公の神忌(命日)である4月17日の「御例祭」には、徳川御宗家が毎年墓参されてきましたが、そうした事実は、久能山東照宮の例祭参列者を除けば、ほとんど知られてこなかったという経緯があります。
 今回の報道は、家康公の命日に御宗家が墓参するということと、久能山東照宮の「神廟」が「家康の墓」であるということを、NHKが初めて全国に報道したということで、画期的な出来事となりました。
徳川御宗家第18当主である徳川恒孝さんによる久能山東照宮神廟に墓参
 写真は、2015年4月17日の久能山東照宮御例祭の後で、参列者一行が神廟に参拝したあと、その場で行なった記念撮影の様子です。同じ模様をNHKが当日の全国ニュースで報道しました。

NHK報道の全文(NHK News Webより)
2015年4月17日 13時56分
徳川家康400回忌 命日に御例祭

ことしは徳川家康の400回忌に当たり、命日の17日、静岡市の久能山東照宮で家康の遺徳をしのぶ御例祭が行われました。
江戸幕府を開いた徳川家康は1616年の4月17日に75歳で亡くなり、静岡市駿河区にある久能山東照宮に葬られました。ことしは家康の没後400回忌の節目の年に当たり、命日の17日に御例祭が行われました。
神事では、徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんが司祭を務め、古式にのっとった装束を身にまとった神職などおよそ350人が53段ある石段を上り、社殿に向かいました。そして、東照宮の落合偉洲宮司が家康の遺徳をしのんで祝詞を読み上げたあと、雅楽の演奏に合わせて春を告げる舞が奉納されました。このあと、一行は社殿の奥にある神廟と呼ばれる家康の墓を参拝しました。社殿の周りには多くの観光客が集まり、厳かな神事に見入っていました。
東京から来たという男性は「前から来たいと思っていましたが、きょうが命日だとは知らず、神事を見ることができ幸運でした」と話していました。また、木遣りを奉納した望月利郎さんは、「記念の年にできて、すがすがしい気分です。家康さんもおりてきて喜び、これからも駿府の町を守ってくれると思います」と話していました。

12. 徳川御宗家が「久能山が墓所」と初めて明言

2016年9月16日『余ハ此處ニ居ル 〜徳川家康公と久能山の真実〜』が、静岡商工会議所観光飲食部会「余ハ此處ニ居ル」プロジェクト推進委員会から駿府静岡市への誘客を目的にブックレットとして発行されました。

2015年8月発行の『余ハ此處ニ居ル 〜すんぷ特別版〜』を発行者を代えて改訂したもので、9月22日から25日まで東京ビッグサイトで開催される世界最大級の旅の祭典「ツーリズムEXPOジャパン2016」などで配布されています。

内容は、2014年11月から2015年8月にかけて当社が発行した『季刊すんぷ』(創刊号〜第4号)のうち、久能山が徳川家康公の墓所であるということ、徳川家康公は1616年4月17日に薨去し久能山に埋葬されてからその遺骸が他所に改葬されたことは一度もなかったことを論証したものです。

2016年には、静岡商工会議所会報『Sing』2016年3月号第1ページにて、徳川宗家第十八代ご当主で静岡商工会議所最高顧問でもあられる徳川恒孝様がこう述べておられます。

「昨年、日本各地で開催された家康公の四百年忌の大祭は、駿府に築かれた公の墓所である久能山東照宮の大祭からスタートし、5月の日光東照宮、岡崎の大樹寺、京都の知恩院等々の盛大な式典をはじめ、家康公にご関係の深い全国の東照宮・寺社で行われ、私も出来る限り出席いたしました」(太字は当サイトによる強調です)
以上のように、久能山こそが墓であるということが初めて明記されたのです。これまで巷間に信じられてきたような「日光東照宮=墓」というのは事実でないということがわかる一文です。これには、一部の間でいまだに「日光が家康公の墓」と論じられていることに終止符を打つという意味もあったのではないかと思われます。

『余ハ此處ニ居ル 〜徳川家康公と久能山の真実〜』にも掲載していますが、徳川御宗家は、徳川家康公の神忌(御命日)である4月17日に毎年久能山東照宮の御例祭で司祭として久能山東照宮神廟(家康公の墓所)に墓参されています。日光の例大祭は月遅れの5月17日であり、御宗家もおいでになりますが、日光では「墓参」はされていないそうです。日光で家康公の「墓」とされている「奥宮」は、あくまでも墓所を象った「宮」(神霊をお祀りする神社)であって、久能山にあるような「廟」(墳墓)ではないからです。

家康公の晩年を駿府城で側近として過ごした金地院崇伝(本光國師)の日記である『本光國師日記』によれば、家康公は亡くなる2週間前の1616年4月2日に駿府城で「遺骸は久能山に埋葬せよ」と側近たちに命じており、日光については「一周忌を過ぎて後に分祀せよ」とだけ命じています。それが家康公の遺命だったのです。

その分祀を指揮した天海僧正が遺命に背いて久能山から遺骸を掘り出して日光に運んだという事実は、いかなる文献にも確認できません。(久能山から日光山へと神柩を運んだ、それを「遷座」「改葬」と称したという文献はあっても、遺命に背いて遺骸を掘り出したという核心部分は確認できないということです)もしそんなことをすれば幕府の一大事として歴史にその騒動が残っていなければなりませんが、そんな歴史は欠片かけらも存在しないようです。

天海僧正が日光へ運んだのは、「神柩」と呼んだ棺だけだったのです。

13. 久能山を墓所と詠んだ徳川家光公の和歌


寛永11年(1634年)6月26日、三代将軍徳川家光公が久能山を参詣しました。

「久能山は駿府城の本丸だからお前は久能山を守れ」と家康公から命じられ、駿府城で自分の膝を枕に家康公の臨終を看取った家臣の榊原照久公が当時の久能山の祭主(久能山東照宮初代宮司というべき地位)です。すでに還暦を迎えていたこの照久公が将軍を迎えたのです。

その折に家光公が詠んだ和歌が『久能山叢書第四編』に記録されています。(『久能山叢書』とは、久能山に古くから伝わる膨大な文献をまとめたもので、『久能山叢書第四編』は昭和51年=1976年に久能山東照宮から上梓されています。)

東より、照らす光の、
ここにありと、今日もうでする
久能のみやしろ
徳川家光

 家光公は明確に「東照大権現(徳川家康公)はここ(久能山)にあり」と詠んでいるのです。家光公が「寛永の大造替」と呼ばれた日光の大改築を行なったのも、ちょうどこの年のことでした。

 元和三年(1617年)の天海僧正による「宮遷し」と呼ばれた日光への「勧請(分祀)」から17年後のことで、さらに翌々年の寛永13年(1636年)には、家光公によって久能山に五重塔が奉納されています。

 久能山は一般には固く閉ざされた将軍家のプライベートな墓所であり、世間の耳目は幕府の意図により日光へ日光へと集められようとしていたことがわかります。

14. 久能山の秘事

 これは昭和48年に久能山東照宮によって刊行された『久能山叢書第三編』に記載されている事実です。

 ほんの2行、さらりと記載されているだけであるため、つい見過してしまいがちですが、実はこれこそは極めて重大な事実であると見なければなりません。

 もとの文言が書き記されたのは推定で延宝六年(1678年)ごろとされており、『久能山叢書第三編』ではこれを「覚書」としています。次のような文言です。

御神体之事。当山之秘事也。
遺命 葬于久能山

(口語訳)
御神体(家康公の御遺骸)の所在は、当久能山の秘事である。
家康公の遺命に「遺骸は久能山に葬れ」とある通りである。

 寛永の大造替も終わり、世間の耳目が日光に集まった後のこと、松尾芭蕉が「あらたふと青葉若葉の日の光」と日光の句を残したのは元禄二年(1689年)になってからですが、それ以前より日光東照宮の荘厳さはよく知られるところとなり、関東平野の最北にある日光は、江戸から大勢の人々が参詣に訪れるのに適してもいました。

 家康公の薨去から60年以上が経ち、久能山は幕府の意図したとおりに世間から忘れられる存在となっていたのかもしません。この「覚書」があえて書き記されたことも、そのような時代の変遷によるものだと考えることができます。

 つまり、当時の神職や僧侶、久能山の事務や警備に当たってきた幕府の役人たちに対してこの事実の重大さを知らせ、ともすれば緩みがちな士気を改めて引き締めたのではないかということです。

 近年でも、戦後60年が経ったのが2005年のことでしたが、60年という歳月がかつてあったはずの緊張感にどんな影響を及ぼすものか、現代の私たちにも想像できるのではないでしょうか。家康公の薨去から62年という延宝六年(1678年)、埋葬された当時を知る人もすでにほとんどこの世にいなかったはずですから。

 「覚書」があえて書き記された背景はそのように想像することができます。そして改めてこの文言を読めば、久能山こそが江戸幕府にとって最も重要な徳川家康公の墓所であり、家康公はずっとここに埋葬されたままであるという事実がはっきりと伝わってくるのです。

15. 年表で追う御遺命

元和二年(1616年)
4月2日 徳川家康公が駿府城にて、本多正純、天海、崇伝の三名を呼び遺命を託す。
「臨終となったら体は久能山に埋葬し、葬儀は江戸の増上寺にて、位牌は三河の大樹寺に、一周忌も過ぎて後、日光山に小さき堂を建て勧請(=分祀)せよ、八州の鎮守になるべく」(本光国師日記)
*崇伝とは『本光国師日記』を遺した金地院崇伝本人のこと
4月16日 病状が悪化する中、側近の榊原照久を枕元に呼び、自分の体を久能山の神廟に西向きに埋葬すること、照久が久能山の祭主となることなどを命じる。(東照宮御實記) *榊原照久は改名後の名で、当時は榊原清久。榊原照久は家康公より「久能山は駿府城の本丸だからお前は久能山を守れ」と命じられてきており、大阪の陣にも出陣を禁じられ、家康公亡きあとは久能山東照宮の初代祭主となった。
4月17日 巳の刻(午前十時ごろ)、徳川家康公が駿府城にて、榊原照久の膝を枕に臨終。夜、久能山に運ばれ19日に埋葬される。 *神となる身であったため、決して人目に触れぬようにして久能山に運ばれたのが当日の夜。雨が降っていた。
元和三年(1617年)
2月21日 東照大権現の神号をたまわる。
3月15日 日光へ「柩」を運ぶ「宮遷し」の行列が久能山を出発。指揮を執った天海が久能山に和歌を残す。
「あればある、なければなきに、駿河なる躯のなき神の、宮うつしかな」(久能山叢書第四編)
「あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」(阿部正信『駿國雜志』四下)
*天海は自ら鋤鍬を持って指揮を執ったというが、久能山に西を向いた蹲踞の姿勢で土葬されていた御遺骸を実際に掘り起こしたのであれば、御遺命に背く極めて重大な変更であったはずだが、そのような非常事態は歴史には片鱗たりとも残されていない。天海が行なったのはあくまでも形だけの儀式であったと考えられる。
4月17日 日光への「宮遷し」が完了する。
全日程のうち実際に移動したのは十日のみと、非常にゆっくりと「神柩」を運んだ後、4月8日に日光奥院に「神柩」が安置された。
*本年表の日付はいずれも旧暦。「宮遷し」の行列が日光に向かったこの時期は、現代の新暦ではゴールデンウィークに当たり、気候も温暖であったと考えられる。3月15日から4月8日までの24日間に、途中各地で何度も連泊していることからも、防腐処理(将軍の柩が300kg以上の硫化水銀で満たされていたことは昭和32年の増上寺発掘調査でわかっている)の上で土葬されていた御遺骸が「神柩」の中にあったと考えることはできない。
12月 中井正清を大工棟梁とし、当時最高の建築技術により権現造りの久能山社殿が完成する。「東照社」と称する。 *当時最高の建築物が「宮遷し」の後に完成していることからも、久能山に与えられた地位と価値はいささかも損なわれていないばかりか、「宮遷し」後であっても御遺命通り「小さき堂」でしかなかった日光の宮よりも久能山がはるかに重要であったことがわかる。つまり、御遺命に背くようなことはなかったということ。
寛永十一年(1634年)
6月26日 将軍家光が久能山に参詣。還暦を迎えた榊原照久が迎える。(大猷院殿御實記)
京都へと向かう家光は「家康公は久能山にあり」という意味の和歌を久能山に残す。
「東より、照らす光の、ここにありと、今日もうでする久能のみやしろ」(久能山叢書第四編)
家光が日光を建てなおす。(寛永の大造替)
*久能山は一般に向けては固く閉ざされていたため、家光が行なった日光の大改築「寛永の大造替」の目的の中には、世間の耳目を日光へ集中させて久能山という本当の墓所からは世間の注意を逸らすこともあったものと考えられる。家光が久能山に残し、世間には公表されなかったこの和歌は、そうした背景を踏まえた上でこそ真意が汲み取れるものとなっている。
寛永十三年(1636年)
  家光奉納の五重塔が完成。

*写真はクリックすると別ウィンドウで拡大。
*この五重塔は明治6年8月、神仏分離令によって解体されてしまった。
*写真は『敷島美観』(帝国地史編纂所/明治39年刊/アドマック出版蔵)より。江戸時代末期に撮影されたものと考えられる。二人の武士が写っているが、参道の右端に立つ者は裸足。当時は楼門で履物を脱いで裸足で参拝したといわれている。
*もし日光が「墓所」で久能山に「何もない」のであれば、日光の大改築を行なった家光が一般立入禁止の久能山にさらに五重塔を奉納する意義が考えにくい。
*久能山は急峻な山であり、久能山という山ひとつが徳川家康公の墓所である。日光のように家光や天海の墓を建てる場所の余裕はない。久能山の近くに唯一自分の墓を建てたのは、家康公を自身の膝に看取り久能山東照宮初代祭主を務めた榊原照久。久能山の海岸側の麓に照久寺(現在の宝台院別院)を開き、その墓石は今も久能山を見守っている。
寛永十七年(1640年)
  久能山廟所に巨石を使った石の宝塔が完成。 *現代にも伝わるこの宝塔の以前には、木造による荘厳な宝塔が建てられていたという。宝塔の下に家康公の御遺骸を収めた柩が埋葬されているわけであるが、その極めて厳重な埋葬方法も明らかになっている。昭和60年に東京大学出版会より刊行された鈴木尚著『骨は語る 徳川将軍家・大名家の人びと』に掲載されているものだが、昭和33年8月4日、東京の増上寺において二代将軍秀忠公らの墓所が文字通りの改葬のため発掘された際に学術的にも調査が行われている。
正保二年(1645年)
11月3日 宮号が下り、「東照社」から「東照宮」となる。
延宝六年?(1678年?)
  久能山東照宮に覚書あり。
「御神体之事。当山之秘事也。遺命 葬于久能山」(久能山叢書第三編)
*(口語訳)「御神体(家康公の御遺骸)の所在は、当久能山の秘事である。家康公の遺命に「遺骸は久能山に葬れ」とある通りである。」

16. 証拠のまとめ 〜まだ半信半疑のあなたへ〜

1 遺命は守られた 崇伝が記録した通り「久能山に埋葬せよ」が家康公の遺命です。もしこの遺命が「破られた」ということであったのなら、歴史にその騒動が残っているはず。しかし現実には、歴史にそんな騒動は存在しません。
2 天海が改葬を偽装した 「徳川実紀」などに、天海が鋤鍬を持って改葬の指揮を執ったと記録されています。それが「日光へ改葬された」説の根拠となっています。しかし上記の「騒動」は存在しない。なぜかといえば、「改葬」が偽装されたものだったからです。また、今でいえばゴールデンウィークという暖かな季節に、腐敗防止措置が施されたはずの遺骸、没後1年足らずの遺骸をのんびり運ぶ(久能山から日光山まで途中何度も連泊している)のは不可能です。つまり「運ばれた神柩の中に遺骸は入っていなかった」というのが事実です。
3 遺骸の入った柩は決して人目に触れさせない 家康公が亡くなった当日の夜、雨の中を、決して人目に触れさせないようにして、神となる躰を載せた本当の柩は密かに久能山へと運ばれました。一方の日光への「改葬(?)」では、金の神輿でゆっくりと、これ見よがしに運ばれています。中身が「躰」ではなかったことは、この事実からも明らかです。
4 久能山は秘密にされた 「天海の偽装」以後、家光公による寛永の大造替(日光東照宮の大建築)も行われ、徳川幕府は世間の耳目を日光へ集めました。一方で久能山は、世間にはなるべく知られないよう、一般には立入禁止とされていました。久能山に伝わる古文書にも、「遺命に久能山に葬れとある通りだが、ここに御遺骸があることは秘密にしなければならない」という意味の延宝年間の「覚書」が残っています。
5 将軍家の墓所は久能山 久能山が徳川家康公の墓所であることは、御宗家徳川恒孝様もはっきりと認めておられます。
『家康公と静岡』徳川恒孝(静岡商工会議所 Sing 2016年3月号第1ページ) »
5 御宗家の墓参は久能山だけ 御宗家は毎年、家康公の命日である4月17日に久能山で御例祭の司祭を務め、墓所である神廟に参拝されています。これは2015年以降にNHKなどでも報道されてきている通りです。この日、日光には特別な行事はありません。日光の例大祭である5月17日にも御宗家は日光に見えますが、「墓」とされる「奥宮」へは参拝されていません。
 さらに決定的な証拠があります。桜井明氏の書かれた『徳川家康公と久能山東照宮神廟の謎』という論文です。
 論文では、日光側(遺骸は日光に運ばれたとする議論)についても詳細に検証し、その論拠が疑わしいものであったと結論しています。
 同時に、日光へと運ばれた「神柩」の中に遺骸がなかった決定的な証拠となる川越喜多院での法要についても検証しています。
 限定部数わずか100部ですが、2018年7月から久能山東照宮社務所で頒布されています。(1冊の代金800円は文化財保護に使われます)

(文責:アドマック出版代表 興津 諦)

17. 参考文献

『続国史大系第九巻/第十巻 東照宮御實紀 台徳院殿御實紀 大猷院殿御實紀』
經濟雜誌社 明治35年
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
J-TEXTS 日本文学電子図書館

『新訂 本光國師日記 第三』校訂 副島種経
株式会社続群書類従完成会 昭和43年12月25日

『阿部正信 駿國雜志 四下』
明治8年の写本(静岡県立中央図書館蔵)
吉見書店版 明治42年(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)

『久能山叢書第三編』久能山東照宮刊 昭和48年

『久能山叢書第四編』久能山東照宮刊 昭和51年

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会 昭和60年

『家康公と静岡』徳川恒孝(静岡商工会議所 Sing 2016年3月号第1ページ)

『久能山東照宮ホームページ』
由来・行事

『日光東照宮ホームページ』
祭典・行事