東照大権現徳川家康公御上意「久能山こそ駿府城の本丸なり」SUMPU 季刊すんぷ 〜駿府静岡の権威を取り戻す “駿府復興ムーヴメント”〜

徳川家康公の真の墓所は久能山東照宮であり、ご遺骸は徳川家康公の薨去こうきょされた元和げんな二年四月十七日に埋葬されたまま、久能山東照宮のご神廟しんびょうにあります。当サイトはその事実を検証するものです。

 当サイト『駿府ネット』は「久能山には遺骸はない」という誤解を解くことを目的とし、権現さまのご霊験が世界にもたらされることを願って、2014年7月、アドマック出版が立ち上げたものです。同じ趣旨をもって2014年11月『季刊すんぷ』を発行し、久能山東照宮ほかにて創刊号3,000部を無料配布します。文責は弊社アドマック出版にあります。


▼検証 INDEX (このページ内各項へのリンク)
  1. 徳川家康公の御遺命と「勧請」
  2. 家臣、側近たちの忠誠心
  3. 寛永の大造替後の石の宝塔建設
  4. 久能山の御例祭と日光の例大祭
  5. 久能山と日光、「墓所」の正式名称
  6. 日光に御遺骸が必要だったか?
  7. 御遺骸を日光まで運ぶことは不可能
  8. なぜトリックが必要だったか?
  9. 久能山東照宮とは? 日光東照宮とは?
  10. 徳川御宗家による墓参をNHKが全国ニュースで初めて報道 ◀NEW!
  11. 参考文献
  12. 制作協力
最終更新:2015年4月25日(土)



1. 徳川家康公の御遺命と「勧請」


 本光國師こと金地院崇伝は、大御所家康公の宗教担当として、天海僧正こと南光坊天海らと共に駿府城にいて、自身の書状の記録を主とする正確な日記を残しました。その『本光國師日記』の中、元和二年(1616年)4月4日の日記に、徳川家康公の御遺命が記録されています。

本光國師日記元和二年四月
本光國師日記元和二年四月

【本光國師日記 元和二年卯月四日】
 南禪寺迄好便候而。一書令啓達候。一傅奏衆歸京之刻。以書狀申候。一相國樣御煩。追日御草臥被成。御しやくり。御痰なと指出。御熱氣增候て。事之外御苦痛之御樣体ニて。將軍樣を始。下々迄も御城に相詰。氣を詰申体。可被成御推量候。傅奏衆上洛之以後。事之外相おもり申躰候。拙老式儀ハ。日々おくへ召候て。忝御意共。涙をなかし申事候。一 一兩日以前。本上州。南光坊。拙老御前へ被爲召。被仰置候ハ。臨終候ハ丶御躰をハ久能へ納。御葬禮をハ增上寺ニて申付。御位牌をハ三川之大樹寺ニ立。一周忌も過候て以後。日光山に小キ堂をたて。勸請し候へ。八州之鎮守に可被爲成との御意候。皆々涙をなかし申候。一昨三日ハ。近日ニ相替。はつきと御座候て。色々樣の御金言共被仰出。扨々人間ニてハ無御座と各申事候。此上ニても御本復被候て。御吉左右申入度候。内膳殿ゟ可被仰入候。恐惶謹言。
卯月四日 金地院
『新訂 本光國師日記 第三』校訂 副島種経
株式会社続群書類従完成会 刊行
昭和43年12月25日発行(383ページ)

赤字ご遺命部分の現代語訳】
 「一両日以前(1616年4月2日、大御所徳川家康公が駿府城にて)、本多上野介正純と南光坊天海、そして筆者金地院崇伝をお招きになり仰せおかれるには、『臨終となったら躰は久能へ納め、葬儀は増上寺にて申し付け、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌も過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て勧請せよ、八州の鎮守になるべく』との御意であった。皆々涙を流した」

【ご遺命の意味するもの】
 1616年4月17日に薨去(死去)する2週間ほど前に、徳川家康公は病に伏せる駿府城で側近たちを呼んで次の4点を告げたということです。
(1)遺骸は久能山に埋葬すること
(2)葬式は江戸の増上寺で行なうこと
(3)位牌は徳川家の菩提寺である大樹寺に立てること
(4)一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請(分霊)すること
 徳川家康公は「日光へ勧請(かんじょう)せよ」と命じています。
 「勧請」とは、分霊であり、分祀ですから、遺骸は久能山に埋葬し、その遺骸をまた掘り出して日光へ運べとは決して命じていないのです。遺骸は久能山に埋葬せよというのが徳川家康公のご遺命です。
 翌年の元和3年3月15日、徳川家康公のこの遺命に従い、勧請の総指揮にあたった南光坊天海はじめ家臣たちは、久能山から日光へ向けた盛大な勧請となる「神霊遷し」を始めました。

【南光坊天海が久能山に残した謎の歌】
 この勧請を指揮した天海は、これを「勧請」ではなく「宮遷し」と称し、神霊を「柩」で運びました。そのため、「遺骸は千人行列で日光へ運ばれ、久能山から日光への改葬が行われた」と巷間に信じられるようになったようです。

 天海はこの時、久能山に次のような歌を残し、実際に「宮遷し」と称しています。

天海僧正の歌「あればあるなければないに駿河なるくのなき神の宮遷しかな」
天海僧正の歌「あればあるなければないに駿河なるくのなき神の宮遷しかな
阿部正信『駿國雜志』四下より(明治8年の写本/静岡県立中央図書館蔵)


天海僧正の歌「あればあるなければないに駿河なるくのなき神の宮遷しかな
阿部正信『駿國雜志』四下より(吉見書店版)
あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉

 上の表記は変体仮名の部分を漢字に置きかえたものですが、変体仮名を現代の普通の仮名に代えるなどして下に読みやすくしてみます。(吉見書店版に準ず)
あればある なければないに 駿河なる くのなき神の 宮遷しかな
 実はこの歌にこそ、「幕府のトリック」が隠されていたと読むことができます。

 全体的に意味のわかりにくい歌ですが、特に奇妙なのは、赤字にした「くの」の部分です。まず「」の字をわざわざ「」の変体仮名にして「久能」と読めるようにしてありますが、「久能なき神の宮遷し」と読んだのでは意味が通りません。

 そこで今度は「の」を助詞の「の」と見ます。するとそこで仮名の「」の意味は?となりますが、唯一「く」で意味が通るのは「一軀、二軀」と御神体を数えるときの「」です。

 天海は「」の仮名に「御尊体(御遺骸)」という意味を込めたのです。それには「軀」という生々しい漢字を避ける目的もあったでしょうし、御尊体の在り処「駿河なる久能」を織り込むためもあったのでしょう。つまり天海はこの歌で「御遺骸なき宮遷し」と言い、「宮遷しは遺骸の運び出しではない」と言いのこしたのです。そう読んではじめて歌全体の意味も通ってきます。
霊柩の中に御尊体があると思ってもないと思ってもどちらでも良い
これは御尊体なき宮遷しなのだ
 また、もし巷間信じられているように「御遺骸を掘り出して日光へ運んだ」ということだったとしたら、そもそもこのような歌を残す必要がないということにも注意しなければなりません。

 天海ら幕府は、その後も久能山を守りつづけましたが、一方で世間の耳目を日光に集めようと尽力しています。

 久能山には神聖なる真の墓所としての役割があり、日光は日光で、幕府の安泰をはかる上での大事な役割があったからです。


2. 家臣、側近たちの忠誠


 いずれにしても、天海僧正をはじめとする側近たちはみな、徳川家康公のご遺命に従ったと見るべきだろうと思われます。

 「それでも遺命に背いて遺骸が掘り出されて運ばれた」というのが事実と仮定した場合、家臣や側近や将軍など、この千人行列に関わった幕府中枢の中に、必ずご遺命に背くことへの反対意見が出たはずですが、それでも無事に改葬ができたということなのでしょうか?

 また、徳川家康公は西を向いて「立てて」(まっすぐ座った姿勢でという意味)埋葬されたとされ、それは土葬でしたから、火葬と違って「分骨」もできません。

 「西に向けよ」という徳川家康公のご遺命は、「東は安泰だが、西の勢力はまだ心配なものがある」との判断があったためで、死んでからも西を睨みつづけて生きつづけようという強いご遺志によるものです。それは側近たち、家臣たちにとってもとても心強いものだったのです。もし遺骸の掘り起こしと日光への運び出しをしてしまえば、その「死んでからも続ける役割」がまったくの無となってしまいます。そのようなことをする理由は、全く考えられません。




3. 寛永の大造替後の石の宝塔建設


 三代将軍徳川家光公のとき、幕府の財産を湯水のように遣って行われたというのがいわゆる寛永の大造替です。

 寛永11年(1634年)、工期1年5か月、450万人の延べ人数によって、日光東照宮が今のような壮大なものに建て替えられました。日光の壮大さには及ばないものの、三代将軍徳川家光公は、この大造替のとき、久能山東照宮の増築も命じています。

 久能山東照宮の神廟(徳川家康公墓所)がそれまでの木造から今のような荘厳な石造りの宝塔に建て替えられたのも、家光公存命中の寛永17年(1640年)のことだったといいますから、「日光遷座」といわれた元和3年(1617年)以降も、この墓所は幕府の手によって、この上なく、大事にされてきたのです。

 また当時の久能山東照宮は、社殿を含め、一般の民衆がいつでも参拝できるようにはされておらず、江戸幕府のプライベートな場所だったともいわれています。こうした事実が示すものは、日光に東照宮ができた後も、久能山の重要性がいささかも失われてはいなかったということでしょう。


久能山東照宮の神廟=徳川家康公の墓所
久能山東照宮の神廟=徳川家康公の墓所



4. 久能山の御例祭と日光の例大祭


 久能山東照宮の御例祭は、毎年4月17日、徳川家康公のご命日です。徳川家康公が神になられたその日に、徳川御宗家も装束をつけておまつりをされます。社殿にておまつりされた後には、徳川家康公の墓所であるご神廟に行かれ参拝されます。

 一方、日光東照宮の春季例大祭は、一年で最も重要なおまつりですが、徳川家康公のご命日の1か月遅れとなる、5月17日です。徳川御宗家は、日光でも本殿にておまつりをされますが、久能山と違うのは、そのおまつりの後、奥宮と呼ばれる日光における「徳川家康公の墓所」へはお参りされず、そのまま直会(神社のおまつりのあとで御神饌や御神酒をいただく会)へ行かれるということです。

 日光では例大祭の翌日、5月18日に神輿渡御祭が開催され、「百物揃千人武者行列」が盛大に行われます。元和三年(1617年)4月4日、天海僧正の指揮のもと、徳川家康公の御霊を乗せた霊柩が千人行列によって日光へ到着したことを再現するもので、大変に大勢の観光客が集まります。

 日光東照宮はこのように、国と一般民衆に向けて開かれた東照宮であることがわかります。「日光を見ずして結構と言うなかれ」という言葉がことわざにもなっているほどですから、江戸時代からその壮麗さは民衆からも認められていたということです。

 一方の久能山東照宮は、徳川将軍家によって厳しく守護され、民衆が気安く見ることもできなかったといいますから、神聖なる特別な神社だったということがわかると思います。

 以上のことからも、久能山東照宮の御神廟にこそ徳川家康公が埋葬されているということがわかると思います。日光東照宮にあるのは、家康公の御霊(鏡にうつした御神体)を納めた霊柩であって、それは御遺骸ではないということです。

 もっとも、神道としての見方をすれば、御遺骸は久能山に埋葬されたままであっても、それを勧請(分祀)することで、神さまはどこにでも偏在します。それは、墓地があって、仏壇があることと同じです。

 したがって、当サイト『駿府ネット』と『季刊すんぷ』は、「日光には徳川家康公はいない」と主張するものでは決してありません。それどころか、全国にある東照宮の全てに東照大権現は偏在するものと信じるべきだと考えます。

 中でも、徳川家康公が久能山に埋葬されてからたった1年という早い時期に歴史上最大の勧請が日光に行われたこと、それによって日光が久能山以外の他の東照宮とは一線を画する特別な東照宮となったと見ることは異論のないところです。

 ところが今までは、地元静岡の人たちも含めほとんどの人々が「久能山には家康公の遺骸はない」と信じてきました。しかしそれだけは明らかな間違いであり、それではまったく辻褄が合わないということ、これだけはどうしても主張していかなければならないと考えます。


行事の日程を確認

久能山東照宮
4月17日(徳川家康公の御命日) 御例祭

日光東照宮
5月17日(徳川家康公の月遅れ命日) 春季例大祭
5月18日 百物揃千人武者行列
※日光東照宮には、徳川家康公の御命日(4月17日)には特に行事はないようです。


5. 久能山と日光、「墓所」の正式名称


 久能山に「神廟」があるように、日光にも「墓所」とされる場所があり、そこには「神柩」が埋められています。問題は、その「神柩」の中に本当に御遺骸があるかどうかです。

 「現代の科学技術を使って地中を調べてみればよい」という考え方もありますが、東照宮はどちらも神聖なる信仰の場ですから、そのような「調査」は許されないでしょう。

 しかしそのような調査をしなくても、地中にあるものが何であるのか、それを知っていた人たちがいます。「遷座」「宮遷し」「改葬」とも呼ばれてきた元和3年(1617年)の勧請に携わった幕府中枢の人たちです。

 その人たちが「知っていること」を遺したと考えられるのが、それぞれの「墓所」とされる場所に与えた「正式名称」です。

 久能山東照宮は「神廟(しんびょう)」といいます。神職の方々の間では「御廟所(ごびょうしょ)」とも呼ばれています。

 「廟」とはつまり、「墓」という意味です。つまり久能山の神廟は、神君徳川家康公の墓そのものだというのが、その正式名称に表されています。


久能山東照宮 神廟(御廟所)

 一方の日光東照宮には「廟」の字のつく場所がありません。「神柩」が埋められていて「墓所」とされている場所の正式名称は「奥宮御宝塔(おくみやごほうとう)」です。そこに「墓」という意味は込められていないのです。

 以上の事実も、私たちは重く受け止めなければなりません。地中にあるものが本当に御遺骸なのかどうか、それを知る人たちの間で同意され、与えられ、そして今に伝えられてきた正式名称だからです。


日光東照宮 奥宮御宝塔




6. 日光に御遺骸が必要だったか?


 日光東照宮の奥宮御宝塔の地中には、確かに神柩が埋められているわけですが、その神柩の中に、「御遺骸が入っていなければならない」と考える人もいるようです。しかしそのような考え方はどうなんでしょうか?

 日本人の宗教観というものがあって、それは神道でも仏教でも同じように、先祖を大事にする、死者を敬うという考え方があります。仏教の本家であるインドやチベットなどには、日本仏教のような形での先祖供養はないといいますから、仏教も神道的な宗教観によって日本独自のものになってきたようです。

 日本では各家庭で仏壇を祀り、その仏壇に向かってお線香をあげて祈ることで、先祖の存在を感じ、死者を供養する心を共有します。それが日本人の心であり、日本人の宗教観としては、御霊はそれを祀るところに必ず偏在するということになっています。

 同じように、日光東照宮にも奥宮があり、神君家康公の御霊を祀っています。だからといって、その地中に「御遺骸がなければならない」と考えるのは、そうした日本人の宗教観としてみれば、必ずしも必要のない考え方だというべきものです。




7. 御遺骸を日光まで運ぶことは不可能


 元和3年3月15日(新暦1616年4月20日)より、天海僧正が総指揮を執り、久能山から日光への「宮遷し」が行われたというのが、歴史の事実ということで間違いはありません。久能山の家康公廟所に天海僧正が自ら鋤鍬をもって立つところから「宮遷し」が始まったということが歴史に明確に記録されています。
 しかしここで、私たちは “当たり前のこと” について想像しなければなりません。それは以下のようなことです。

  1. 家康公の御遺骸は土葬されていた。
  2. 埋葬されてから1年足らずだった。
    *御遺骸の保存に朱(毒物の硫化水銀)が使われたという説もあり、もしそうなら埋葬された時の状態に近い。
  3. 「神柩」は、新暦4月20日から約2週間の日程で日光へ運ばれた。

 御遺骸をこのような条件下で、今でいえばゴールデンウィークに相当する暖かな時季に2週間もかけて、優雅に日光へ運ぶということが、果たして可能かどうかということです。不可能だというのが当たり前ではないでしょうか?




8. なぜトリックが必要だったか?


 「徳川家康公の御遺骸は久能山にはなく日光へ改葬されてしまった」ということを信じる人は多く、それがいつからそのように信じられるようになったのかは定かではありませんが、幕府にとっては、そう信じられることの方が都合がよかったと見ることができます。

 それは、「東照大権現の墓所」を、天皇陵にも負けないような、日本で最高に権威あるものにする必要があったからですが、そのためには、狹い久能山の山頂という地理的に制約の大きい場所では、権威ある大規模な墓所には到底ならないという事情がありました。

 その点で、日光は敷地を広く使うことができます。日光なら、日本最大級の墓所が建造可能でしたから、徳川家康公の一周忌、御遺命通り「勧請(分祀)」する際に、大掛かりな千人行列を行なって、それが「改葬である」としか思われないような「トリック」を始めたと見ることもできるのかもしれません。


国宝、久能山東照宮社殿
国宝、久能山東照宮社殿





9. 久能山東照宮とは? 日光東照宮とは?


 ここまでご案内してきた様々な事実から、はっきりと見えてくることがあります。それは、久能山東照宮とは何か、日光東照宮とは何なのか、それぞれの本質的なあり方です。それを以下に整理してみます。

久能山東照宮
  1. 急峻な箱根山(火山)によって、江戸とは厳しく隔てられている。
  2. 地理的には、楼門、社殿を含めて急峻な久能山の山頂にあり、安易な参拝を拒んでいる。
  3. 徳川家光公による「寛永の大造替」後も神廟が壮麗な石造りにされ、社殿の前に五重塔が築かれるなど、幕府の手によって密かに、一貫して守護されてきた。
  4. 久能山という山ひとつ全体が、神君徳川家康公の墓所となっている。

日光東照宮
  1. 日本最大の平野である関東平野の最北部にある。
  2. 地理的には、緩やかな斜面にあり、一般民衆も含め広く大勢の人々による参拝を容易にしている。
  3. 徳川家光公による「寛永の大造替」により、東照大権現の圧倒的な権威(あるいは御霊験)を見せようとしている。
  4. その規模以外は徳川家康公の御遺命通りと見られ、関東全体を鎮守する神として鎮座している。


 以上の事実から、同じ「東照宮」であっても久能山と日光とでは、それぞれの意義が明確に分かれ、役割が分担されていると見ることができます。

 実際に参拝してみると、神聖さでいえば久能山であり、荘厳さでいえば日光だという感想を持たれる方が多いのではないかと思いますが、それというのも、久能山は(神君徳川家康公の)お墓そのものであり、日光は(東照大権現を最も盛大に祀った)お宮であるからといって良いのではないでしょうか。

(文責:アドマック出版代表 興津 諦)






10. 徳川御宗家による墓参をNHKが全国ニュースで初めて報道


 去る2015年4月17日、徳川御宗家第18当主である徳川恒孝さんによる久能山東照宮神廟への墓参を、NHKが全国ニュースで初めて報道しました。
 久能山東照宮では、「御鎮座四百年大祭」を4月15日から19日まで斎行しました。そのうち、徳川家康公の命日である4月17日の「御例祭」には、徳川御宗家が毎年墓参されてきましたが、そうした事実は、久能山東照宮の例祭参列者を除けば、ほとんど知られてこなかったという経緯があります。
 今回の報道は、家康公の命日に御宗家が墓参するということと、久能山東照宮の「神廟」が「家康の墓」であるということを、NHKが初めて全国に報道したということで、画期的な出来事となりました。

徳川御宗家第18当主である徳川恒孝さんによる久能山東照宮神廟に墓参

 写真は、2015年4月17日の久能山東照宮御例祭の後で、参列者一行が神廟に参拝したあと、その場で行なった記念撮影の様子です。同じ模様をNHKが当日の全国ニュースで報道しました。

NHK報道の全文(NHK News Webより)
2015年4月17日 13時56分
徳川家康400回忌 命日に御例祭

ことしは徳川家康の400回忌に当たり、命日の17日、静岡市の久能山東照宮で家康の遺徳をしのぶ御例祭が行われました。
江戸幕府を開いた徳川家康は1616年の4月17日に75歳で亡くなり、静岡市駿河区にある久能山東照宮に葬られました。ことしは家康の没後400回忌の節目の年に当たり、命日の17日に御例祭が行われました。
神事では、徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんが司祭を務め、古式にのっとった装束を身にまとった神職などおよそ350人が53段ある石段を上り、社殿に向かいました。そして、東照宮の落合偉洲宮司が家康の遺徳をしのんで祝詞を読み上げたあと、雅楽の演奏に合わせて春を告げる舞が奉納されました。このあと、一行は社殿の奥にある神廟と呼ばれる家康の墓を参拝しました。社殿の周りには多くの観光客が集まり、厳かな神事に見入っていました。
東京から来たという男性は「前から来たいと思っていましたが、きょうが命日だとは知らず、神事を見ることができ幸運でした」と話していました。また、木遣りを奉納した望月利郎さんは、「記念の年にできて、すがすがしい気分です。家康さんもおりてきて喜び、これからも駿府の町を守ってくれると思います」と話していました。



11. 参考文献


『続国史大系第九巻 德川實紀 第一篇』
經濟雜誌社 明治35年
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
J-TEXTS 日本文学電子図書館

『新訂 本光國師日記 第三』校訂 副島種経
株式会社続群書類従完成会 昭和43年12月25日

『阿部正信 駿國雜志 四下』
明治8年の写本(静岡県立中央図書館蔵)
吉見書店版 明治42年(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)

『久能山東照宮ホームページ』
由来・行事

『日光東照宮ホームページ』
祭典・行事


12. 制作協力


久能山東照宮
日本平ロープウェイ 静岡鉄道株式会社
浮月楼 徳川慶喜公屋敷跡


日光東照宮へと「遷された」とされている徳川家康公のご遺体は、今も久能山東照宮の御廟所に眠っています。家康公の御遺言にも「日光へ移せ」という言葉は一切ないのです。久能山東照宮が唯一のお墓です。

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